闘志が開く歌の道の裏話

何回かに渡りこのブログ欄でも紹介しましたが
時代の証言者で歌手の五木ひろしさん。
松山まさる/一条栄一/三谷謙/そして5年間の下積を経て、
『三谷謙』の芸名で歌手生活の全てをかけ1970年(昭和45年)読売テレビ主催の
全日本歌謡選手権に挑戦、七色の声を使い分け、
音色巧みなフシ回しで見事十人を勝ち抜き、
長い下積み生活が肥となって大輪を咲かせたのです。

そして【五木ひろし】として最初に世に出た歌が『横浜たそがれ』
以来数々のヒット曲を出し、
現在もその7色の声は衰えることなく歌謡界の大御所として活躍をされています。

彼は、小学生の時、福岡県美浜町に住み、お父さんの事業が順調でなかったようで
次第にお父さんが家を空ける事が多くなり、夫婦の仲も悪くなって喧嘩も絶えず、
目を覚ますと、両親が言い争う声はそのうち母の激しい鳴き声が聞こえることがあったそうです。

10歳になるかならないかの子供にとって、つらく悲しいことだったことでしょう。
小学5年の時、母は外出していて父だけのときがあり、
父が「ちょっと出かけてくる」と言って彼の頭に手を置くとそのまま出ていったとのこと。

「また仕事にも出かけるのだろう」
その時はそう思いましたが、出ていった後に自分宛の手紙を見つけた。。。(以下略) 
その後父と母は離婚。
母の苦労は筆舌に尽くしがたいものがあったそうです。

朝は暗いうちから起き、田畑で農作業、
それが終わると日雇いの肉体労働で夜遅くまで帰ってきません。
日曜、休日もなく唯一休めるのは雨で作業が行えない時でした。

愚痴や弱音を吐くこともなく当然のように働き続けたのです。

生涯現役が一番の願い。
それが一番幸せな終幕かも知れません。
と締めくくっていました。

実は、私の祖父母が五木ひろしさんと同じ福井県出身で、明治33年に北海道へ開拓移民として移住。
さらに五木さんの誕生日の3月14日は、
私の結婚記念日でもあることから、当時は10人抜き勝ち抜き歌合戦をハラハラしながらも応援をしていました。

その頃から私は五木ひろしさんのファンなのです。
まだまだ七色の素晴らしい声で多くのファンを楽しませてくれることを切望しています。

今日の日が昨日よりもっと良日となりますよう


湘南話し方センター
所長 松永洋忠

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